プロフィール
伊藤節子
1988年10月 スタジオファイブ 設立
業務内容:コサージュ、ブライダル等の企画、制作
ブライダルドレスデザイナー桂 由美先生のドレス造花、髪飾りの企画制作販売
桂由美ブランド
桂由美先生と一緒にドレス造花、髪飾りなどを企画、制作してきました。毎年2回の東京、大阪のショーやパリコレクション、またレンタル用の業者の内覧会等新作を発表してきました。
1999年にはWINDSというJALの国際線機内誌に紹介記事を掲載していただきました。
生け花教室の生徒であった英国女性の結婚式に出席する為、パリとイギリスの彼女の故郷ブライトンへ、英国の一般人である大人の女性の結婚式に参列する貴重な機会に恵まれました。
二人の式は、郊外のプチホテルの図書室で、女性の牧師さんによって執り行われました。
参列なさっている方々は、お二人の交友関係で女性客の多くは帽子を被り、そこにはアートフラワーのコサージュが。
決して華美では無いけれど、フォーマルな装いが身に付いている様子は、周りの雰囲気も合わせて、成熟した社会の豊かさを強く印象付けられた旅の想い出です。
桂由美ブランドのフォーマルウエアー用のコサージュを
展示会に出品したことがきっかけで、ブライダル用を中心にフォーマル向け、カジュアル向け、バッグ、アクセスサリー向けの企画制作を行っています。
2023年1月「一般社団法人SETSUKOの花の教室」設立
フラワーアレンジメントの教室の開催
リモートによるフラワーアレンジメントレッスン
私は、1947年2月4日東京北区で、4人姉妹の末っ子として生まれました。
子供の頃から、お転婆でいつも同世代の子供達と表で遊び回って、勉強は、殆ど
しない元気な子供時代を送りました。
家は母子家庭だったので、経済的には相当苦しく母は朝から夜遅くまで、内職仕事に明け暮れていた中で、よく花を持ち帰って花瓶に挿していた記憶があります。キレイね〜、いい香りがするね〜と良く独り言を言っていた母の姿を朧げながら思い出します。
こんな遠い記憶からも、私は物心がつく前から花屋さんになるのが夢でした。
高校を卒業して、社会人になっても矢張り夢捨てがたく生花の先生の紹介で花屋に転職したのが24歳、遅い出発でしたが、芝公園にある東京プリンスホテルのテナントとして店舗を構えていた花判に6年間修業させて頂きました。
そこで、知り合ったキャセイ航空のC A(昔はスチュワーデス)さんから運命の歯車がグルッと回り始めました。
ホテルのルームで生け花レッスンを始め、彼女達の紹介で外国大使館事務官の若い奥さん方に出張教授をしました。今でもご縁が続いているのはイギリスのリンダ母娘ですが、昨年の春にお母様のドロシーは天国に逝ってしまいました。その頃は、独立して外国人に生け花出張教授と赤坂、銀座のクラブや料亭の
生花の活け込み中心で、又スポットで、アメリカン大使館の婦人クラブに生花の
デモンストレーションをしたり結構充実した日々を送っていたのですが、中々経済的に厳しく、約4年間頑張ったのですが、体調を崩して、この活動はストップしました。
家で休んでいた時に、花屋の後輩から連絡が入って、又運命の扉が開き始めました。浅草橋にある造花と女性下着を扱うメーカーで、特に造花の部門で、ブライダル事業に力を入れる為、女性の営業をそれも花の知識、情報を持っている人を探しているとの事、即決で入社する事になりました。1982年の春でした。
ラブロン株式会社では、約18年間在籍して、デパートや専門店向けにプレゼンの企画書を作成したり、通販の会社に販促したり、年に2回ある展示会の企画
現場指示等多岐にわたる仕事をこなし、管理職まで上り詰めましたが、最終的に
はトップと意見が合わず退職することになりました。
その後は、お声を掛けて頂いたお得意様からのオファーもあり、以前から懇意にしていた砂川 五六氏のスタジオファイブに入社して、共同経営する事になりました。
2015年ご縁があって、B N Iコミュニティーのメンバーになり、活動の分野を企業と個人にも接触できる事に成り、カテゴリーも生花も造花も扱う者として
います。企業には、会社の受付エントランスにアートフラワー装飾を個人向けには花の教室、アニバーサリーライフを運営して来たのですが在籍6年が過ぎて、まさかのコロナ禍でB N Iのシステムもオンライン対応になり、私の仕事もだいぶ影響を受け、時間的にも暇な時間が増えて、何かしないと持て余し気味になって電子書籍を発刊する事ができました。
タイトルは、ベテランフラワーコーディネーターが教える『アートフラワーで独立する方法』こんな副産物も生み出す事もできたので、禍転じて福となすという言葉を信じて、まだまだ歩を止めず前進して行こうと思って居ます。